生命倫理について
2005-04-05
先に「死生学のすすめ」という記事を書いたが、今回は「生命倫理」というもう少し幅広いテーマで考えていることを述べてみたいと思う。
生命倫理を議論する上でまず問題になるのは生と死の境界線はどこで引けばいいのか、ということである。これは宗教や文化影響などによってずいぶん議論が分かれる問題である。日本では在胎22週未満の胎児は中絶手術をすることが可能になっている。つまりそれ以降の胎児を中絶することになれば殺人罪が適応されることより、法律的にも人としてみなされていることになる。しかし国によっては胎児の中絶を禁止していることもある。すると一体どこからが生命の始まりと考えるかはかなり異なる見解があることが分かる。死についても同様で、日本では脳死は人の死とみなされ、臓器移植の指定病院に搬送された場合、臓器移植カードに臓器提供を同意していることを意思表示していると脳死の際に臓器移植をするかどうかを移植コーディネーターなどの相談を受けながら家族が決めなければならなくなる。
このような議論が出てきた背景には医療技術の向上が挙げられる。1960年前後から遺伝子の研究が飛躍的に進むと同時に医療機器の進歩、画像診断技術の開発といった現代医療に欠かせないものが次々生み出された。これらの技術は病気の治療に大きく貢献したと同時に生殖医療、出生前診断、遺伝子治療、そして臓器移植といった今まで私達が決めたことがない命をどう解釈するかについて考えなければならない時代を招いてしまったと言っていいだろう。
それと同時に現在問題になってきているのは遺伝子情報でビジネスをしようとする動きである。現にアイスランドでは1998年のアイスランド健康保健データベース法により、アイスランド議会が承認した包括的プロジェクトをスタートさせ、議会では1月にデコード社に対し、このデータベースについて12年間の独占権を認めた。しかしその後アイスランド政府がデコーダ社から巨額の献金を受け取った疑惑が浮上し、国民から非難の声が上がった。アメリカでも遺伝子に関して特許を取った企業に対して裁判が起こっている。将来生命保険に加入する際には遺伝子検査が求められ、病気の遺伝子を持っていた場合はその病気の補償が受けられなくなることもあり得るだろう。
そして日本でも2003年のデータによると羊水検査や超音波検査などによって先天性の異常があるケースの半数以上が胎児のうちに診断されるようになった。遺伝子の問題はもう私達の想像以上に身近に迫ってきているのである。先天異常が発見された場合、子どもをどうするかを決めるのは現時点では親だがそれをサポートする体制が遅れているのが現状である。それに中絶を推奨するようなことになれば優生思想にもつながりかねない危険性を含んだ問題であり、どのようにして社会が支えていくかを誰もが考える必要があるだろう。
今後遺伝子研究が進んで発達障害に対しても何らかの遺伝子が関わっていることがもっと分かってくるかもしれない。しかしその研究の結果として誰かが傷ついたり不利益をこうむることがなければ、とも危惧している。私達は「生命」というものに対して決定権を持ってしまう時代に生きている以上、自分の意見で考える必要があると思う。そして究極のプライバシーである遺伝子の情報が第三者の手に知らぬ間に流出されないよう気を付けなくてはならない。