秋桜のエッセイ

記憶の曖昧さについて

2005-05-16

自閉症の人たちは一般的に記憶力がいいと言われている。中にはコンピュータのような正確さで事象を覚えていることも多く、周囲の人たちを驚かせることがよくある。しかしその正確な記憶力が日常生活では妨げになっていることもまた多く認められる。

それではどうして正確さがあだになっているのだろうか。実は人間の脳は他の動物に比べてかなり曖昧な覚え方をしているのである。正確さという点では欠点があっても人間の適応力という観点から考えるとこの曖昧さが武器になっていることが多いのである。

何か物事を覚えようとする時、私達は過去の例から共通点を見出すよう工夫をすることが多い。この関連付けというのは人間の脳が曖昧だからこそできることなのである。曖昧であるために人間の脳は何をしているかというと、物事をゆっくり学習するようになっている。

例えばある人を覚えるのに処理が速くて正確な記憶しか学習できないとすると、正面から見た姿と横から見た姿が別な物として処理されてしまう。これら2つの画像が同じものとして認識されるには「記憶の保留」という過程が必要になってくる。つまり、ある画像を見たとき判断をいったん保留し、別な画像を見て共通項を探して異同を判断していくという作業を無意識に行っている。もしも学習の速度が速いと表面にある目に見えたものだけに振り回されてしまい、その奥に潜んでいる物が見えてこなくなってしまう。

日常生活の学習に欠かせないのがこういった般化というプロセスであることを考えると、自閉症の正確さが必ずしもいい方向に働くわけではないことがよく分かってもらえると思う。またこの般化という作業には言語が欠かせないツールであり、抽象的な思考を育むには言語や数字などの記号が重要な役目を果たしている。

曖昧であることの利点は限りある脳細胞を有効に活用することにもつながる。人間の脳の神経細胞はおよそ140億個と言われており、その神経細胞1つにつき約1万のシナプス(細胞間の情報をやり取りする回路)がついている。さらにその情報は全身の神経にもつながっており、そのシナプスも合わせるととてつもない組み合わせがある。しかし情報のやり取りを繰り返していると神経細胞には有限があるため、ある情報に関しては何度も同じ細胞が情報を受け取っていることになる。人では脳の全体の神経のうち99.9%は情報を脳内で何度も繰り返し処理している。脳がことばを聞いて理解するまで遅い場合だと0.5秒くらいかかると言われており、その間に脳の中ではシナプスの間を情報が何十回もグルグル回っていることになる。このような情報のやり取りが強化されることによってネットワークが構築されていく。

自閉症児者の場合、般化のプロセスが難しい場合が多いことを考えるとこのようなネットワークを構成していくようなアプローチが欠かせないことが分かってくる。現に私も指導の際にはパターン化と同時にパターンを崩して般化していくように心がけていた。意味のネットワークを強化して概念化していく作業は社会生活をしていく上ではとても重要であり、様々な状況に対応するのに役立つと私は自分の経験からも感じている。

脳科学の解明は急速に進んでおり、分かるにつれて意外な側面が見えてきている。しかし研究結果がすぐに臨床現場に反映されるわけではないし、倫理的な問題を配慮する必要が出てくる場合もあるだろう。いずれにしても今後の研究から目が離せない。

参考文献
「進化しすぎた脳」~中高生と語る【大脳生理学】の最前線~ 池谷裕二著 朝日出版社
ひとりひとりこころを育てる メル・レヴィーン著 岩谷宏訳 ソフトバンクパブリッシング
認知障害者の心の風景 R.キャンベル編 本田仁視訳 福村出版
生命の不思議 柳澤桂子著 集英社文庫

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