支援を受ける側から支援する側へ(その1)(アスペ・ハート13号掲載分)
2006-09-12
(自己紹介)
初めまして。秋桜(コスモス)と言います。アスペルガーの館というサイトを夫と一緒に運営しています。幼い頃自閉症と言われて専門家の療育を受けました。大学卒業後にリハビリの専門学校へ進学して卒業後、総合病院や保健センター、そして療育センターの外来部門等で言語聴覚士(ST)として働いてきました。言語聴覚士という職業は、聴こえやことば、そしてコミュニケーションの障害や嚥下障害(物を飲み込む事がうまくできない障害)の方々を対象にリハビリ訓練を行うことが仕事です。
(乳児期のfollow upについて)
専門学校卒業後すぐに勤務した総合病院は24時間体制の救命救急センターが併設されていました。そこにはNICU(新生児集中治療室)もあり、仕事の一環で医師のオーダーを受けて食事指導をしたり発達の経過を診て行くということをしていました。そこで感じたのは正常発達(定型発達)ではないというのは大変なことだ、ということです。
折を見て定型発達の乳幼児達の様子を気をつけて観察してみると、本当に彼らの新しいものへの興味の持ち方や周囲の環境への適応力には自然の摂理の力強さを感じました。そして人との触れ合いに対して適切に対応する様子などを目の当たりにして「やっぱり私が小さかった頃の様子とはずいぶん違うんだな」というショックと「定型発達の子どもというのはこんなにも自然に色々なことを身に付けていくのか」という驚きの気持ちを抱きました。身体の使い方やバランスのよさについても同じで、基本がしっかりしていると感じました。たまたま知り合いのお子さん(定型発達)を縦断的に観察できる機会にも恵まれたので、定期的に会って発達検査などをさせてもらう、一緒にお菓子などを作る、お互いの家で遊ぶといった経験をしてみてますますその気持ちが強くなりました。
NICUには染色体異常や早期に生まれた低出生体重児といった新生児、そして出生まもなく起こった病気や事故などが理由で入院されています。そのため感染症や外界の刺激を避けるために徹底管理された空間で過ごすことになります。どうしても定型発達のお子さん達とは異なる環境で過ごすことになります。もちろん病院側もより快適かつ定型発達に近い環境で過ごしてもらう工夫はしています。しかし母胎や家庭で過ごすのとはやはり違うのは否めません。また退院してからも合併症や後遺症などの影響で病院へ入院・通院することも多いし、日常生活でも気を遣うことがたくさんあります。
私自身の経験を述べますと、私の母は婦人科疾患の既往があり、抗がん剤などを服用していたハイリスク妊婦でした。大学病院でフォローされていましたが、骨盤位(逆子)だったこともあり早期破水の後に仮死状態で3日がかりで出生しました。今ならば間違いなくNICUに入院する子どもだったと思います。その経験から考えると発達障害の有無に関らず感覚面などの対応が大切になってくると実感しています。私の場合は感覚過敏の傾向があり、ちょっとした変化に対しても大泣きして母はかなり苦労したそうです。この頃に感覚面などについてもっときめ細かいフォローがあって、対策が取れていればもう少し違っていたのでは、という気がしてなりません。斜頸と側湾の治療とリハビリのため、生後半年から11カ月まである療育機関へ整形外科と理学療法(PT)訓練に通っていたそうなのですが、当時は骨格的な面のフォローが中心で感覚面や出生時のトラブルなどへの配慮はなかったそうです。
(発達とコミュニケーションの関係)
子ども達の発達は運動、認知、言語、社会性が相互に絡んで成長していきます。1歳頃になると定型発達の子ども達ははっきりと「自分と相手(自分と物)」という関係を意識し始めますし、それに伴って自我がはっきりしてきて自己主張も激しくなってきます。それは自閉症者である私が持っているものとは似て非なるものだな、と傍から眺めていて感じています。彼らは相手をとても意識していて、相手に自分と同じく心があるということを本能的に察知しています。それは質問に対する応答の様子を見ているとこの位の年齢から「ママは?」といったわりと曖昧な質問をしてもこちらの意図を汲み取って適切に答えてくれることからも推測することができます。
これは私の個人的な意見ですが、運動や学習というのはある意味自分の身体や心(脳)とのコミュニケーションです。それがうまく行かないというのは自分に対して自信のなさや不安を抱える要因になると思っています。特に1歳になるまでの間というのはその後の人生の基礎を積み上げるために大切な時期です。その辺りが不安定というのはその人の核となる部分に少なからず影響を与えていると思います。実際私自身大人になった今でも時々心の中心にぽっかり穴が開いているような空しい感覚に襲われることがあります。どうも自分は人間として大切な何かが欠落しているのではないか、という気持ちになることもあります。
人間が成長していくのには自己肯定感という「自分はこれでいいのだ」、という感覚が身に付いていることが大切だと言います。しかし自分の身体や心がままならない状況だととてもそれは難しいことだと自分の経験から感じています。ただでさえ失敗経験が多いと自分に対して自信がなくなるものですが、自分の意思と身体からのフィードバックがうまく行かない状態では何が問題なのかもよく分からないまま失敗を繰り返してしまうことになります。何をもって世間ではOKとなるのか、自分はどの位できているのかを正しく評価できる指標を学び、自分の感覚とすり合わせて行く作業がどんな障害についても必要なのだと私は思っています。
定型発達の子ども達が当然のように身に付けていること-それは「相手と自分は違う人間である」ということだと私は考えています。発達障害、特に自閉症スペクトラム障害が強い場合は本当の意味での自他の区別はついていないことが多いと思います。家族は自分の所属物であり、一種の道具として扱うべき対象であり、世界は自分が思ったとおりに動くのが当然のこと、と考えている面があると自分を振り返ってみたり他の人の様子を見ていて思います。そして自分が思ったことや言ったことは相手にそのまま伝わっている、伝わらないのは相手が悪いと考えている印象を受けています。当然このような態度では対人関係にトラブルが生じてしまいます。どこまでが自分の責任でどこからが相手の責任なのかを見極めて行動する能力を育てることがとても大切です。そして対人関係を育てるためにもコミュニケーションを円滑に行うスキルを身に付けさせることが重要になってきます。
もちろん支援者には担当ケースが持っている資質は否定しない姿勢で接して欲しいと願っています。それと同時に暦年齢の定型発達の子ども達ができることは何かということも考えて欲しいのです。その子のありのままの姿を認めることは大事ですが、状況を全部許していいかどうかは別問題です。定型発達というものを知れば知るほど本当に合理的で自然の摂理に沿ってできていることが分かります。何より社会のシステム自体が定型発達に応じて成り立っているものです。ケースの持っている能力や問題と社会の中で求められることのギャップを的確に評価すること、そして何が必要かを判断することがまず大切です。その上で足りない部分はどう補っていくのか(サービスを利用するのか、助けを求める方法を指導するのか等)を支援者の方々には考えて欲しいと私は常々思っています。
今まで多くの発達障害児者に会ってきましたが、幼少期に身に付けるべき社会性や人との距離感などを獲得できていないために人間関係やコミュニケーションにトラブルを起こしているケースがたくさんありました。そしてご家族がその辺りを理解できずに問題が大きくなっていることもよくありました。訓練をしながら「なぜこのような行動をするのか」「どうすれば行動が改善するのか」といった説明をしていくと、ご家族が「まさかこんな根本の所が分かっていないとは夢にも思っていなかった」という感想を漏らしていました。でも理解してもらえるケースは幸せです。こちらが説明しても理解してもらえなくて問題が解決されずに親子共々苦しんでいるケースも少なからずありました。私の説明の仕方が悪かったこともあります。でも理解できない(されない)最大の理由は、自分が当然だと思っていることが身に付いていない(身に付けられない)人もいる、ということが想像できないからなのでしょう。
ある行動がスムーズにできるにはそれ以前の発達課題をどの位きちんと経験しているかが関ってきます。例えば歩行の状態を見ていると発達障害のお子さんの場合、歩けてはいてもとても不安定なケースが多いのです。自転車のように止まっていられないから歩いていないとバランスが取れないというのが実際のようで、体幹部の筋肉、特に姿勢を保つ役割を果たす筋肉が弱いことがしばしば見られます。これは筋肉や関節に問題があったり、這い這いをきちんとしていないために重力に対して身体を支える筋肉や四肢の筋力が適切に鍛えられず、より本人にとって楽なつかまり立ちや伝い歩きを始めてしまったことも関係しているようです。
母の話によると姉も私もあまり這い這いをしていなかったということだそうで「当時もう少し気がついていれば…」と後悔しているようです。私の場合は筋肉の緊張が低くて関節がかなり柔らかいことに加え、斜頸と側湾もあったため、成人後に身体のトラブルがあちこちに出てきています。勤務していた職場の理学療法士(PT)や作業療法士(OT)に診てもらうと身体障害という範疇ではないのですが、本来動かすべき筋肉があまり働いていないため、代償的な動きが多いのだそうです。例えば頸や肩の筋力や関節が弱いために、肩を上げて頚や肩を固めることでカバーしているといった不自然な動きをしています。現在正しい体の動かし方をマンツーマンで習っていますが、トレーナーの先生もあまりの代償的な動きの多さに最初は驚いていました。ことばで解説を受けてから意識をしながら正しい動かし方を先生の動きの手本を見て模倣しています。考えようによってはトレーニングの意味が分かる大人になってから始めて良かったのかもしれません。でも小さい頃から訓練していればもっと違っていたのでは、と自分の経験から考えています。
(脳性麻痺と自閉症)
理学療法士や作業療法士と同じ職場で働けたのは幸運で、本当に勉強になりました。仕事の合間にどう身体を使ったら本来の動きができるかを教えてもらうことができました。同時に一緒に担当しているケースで運動と言語の能力にギャップがある場合はお互いの立場から議論するといった貴重な経験もできました。例え発話があっても話の内容がその場に不適切だったり、一方的なコミュニケーションで会話が成立していない状況についてはPTやOTは専門外であるため、STの話はとてもためになったと言われました。私が常勤で勤務していた施設はセラピスト同士の交流を深める、情報交換をスムーズにする目的でセラピストは全員同じスタッフルームにいる方針でした。そのせいもあってセラピスト同士の仲がよく、気軽に他職種の人と相談することができました。(スタッフルームは職種ごとに分けたり、PTとOTの部屋、STと心理士の部屋といった分け方をすることが多いので、全員が同室、というのはわりと珍しいのです。)
PTやOTと組んでいるケースの代表は脳性麻痺でした。彼らを担当して自閉症児者との類似点や相違点を訓練を通して感じました。そして適切なコミュニケーションに必要な条件とは何かという根本的な問題について折に触れて考え、そして訓練の中で自閉症児への訓練を応用して取り込んでいました。脳性麻痺のケースを担当することで、より一層自閉症や発達障害への理解が深まったと感じています。
脳性麻痺と発達障害と言われると片や肢体不自由障害で、片や多動なども含む障害という一見正反対に見える特徴を持っていますが、感覚の偏りや人との距離感がとりづらいという面では似ていて、そのために社会性の問題を生じることも多々見られます。よく考えてみれば脳性麻痺も脳のトラブルや機能不全による障害なのですから同様な症状が出ても不思議なことではないのですが、表面に現れる症状が異なるのでつい分けて考えがちになりますし、脳性麻痺の場合は身体面のトラブルも多いので社会性の問題というのはつい後回しになりがちです。しかし成長するにつれ親御さんの話を聞いていくと日常生活のトラブルの背景にコミュニケーションの問題が隠されていることが意外と多く、STのオーダーが出ていないケースでもPTやOTから相談を受けることがよくありました。
脳性麻痺のお子さんの場合、移動や日常動作に制限があります。そのため親御さんがどうしても手助けをすることが多く、親との物理的・精神的な距離が近すぎてしまうということもあります。自分で動く、一人で人と関るという経験が少ないのです。だから母親を介してでないと第三者とコミュニケーションが取れない、物の選択ができないといったことが実際にあるのです。親にしてもいちいち本人の意思を聞くには手間がかかるので、つい「~でいいよね」とか「~ちゃんはこっちが好きよね」といった聞き方になります。本人もいつもそうなので特に疑問を持たずに物事が進んでいってしまいます。
そのためST訓練を始めたばかりの頃はSTが「今日は何をしたい?」と尋ねると何をしたらいいのか分からなくて困ってしまう、ということが多く見られます。まずは選ぶというのはどういうことなのか、そして選ぶことで自分の気持ちというものに気づいていってもらい、自分の気持ちがかなうとどんな風に物事が進むのかといったことを教えていくことが最初の目標になってきます。親御さんたちも「この子がこんな風に考えているなんて、今まで全然知らなかった」「自分が期待した答えを誘導していたのかもしれない」と自分のコミュニケーションのとり方を考える機会になっているようでした。
肢体不自由児達にとってSTの訓練というのはとても楽しい時間です。PTやOTの訓練というのは言うことを利かない身体を動かす時間のため、本人に訓練の必要性が分からないうちは苦痛を伴います。先ほども書きましたが自分の身体とうまくコミュニケーションが取れない状態で訓練をしていく、というのは訓練へのモチベーションも下がりますし訓練をするとどんないいことがあるのかが実感しづらいものです。でもSTの時間は自分の気持ちをセラピストにじっくりかつ丁寧に聴いてもらえるし、自分の意思を表現することで人とコミュニケーションをし、気持ちを共有するといった経験ができます。
そしてST訓練がすすむにつれ、だんだん彼らは自分の気持ちを表明することの楽しさを覚えていきます。それにつれて今まで精神的にも一体化していた親との関係も少しずつですが分離していきます。経験していくことで自分-他者との関係が分かっていくのを目の当たりにしてみて「こういう所は自閉症の子ども達と全然違うなぁ」と改めて実感したことが何度かありました。肢体不自由児の場合、基本的には緊張することはあっても信頼関係が取れてきてコミュニケーションの楽しさが分かってくると訓練の必要性を理解してくれます。つまり経験不足の要素が大きいので、方略を定めて経験する下地をこちらが丁寧に作っていくことで変化のきっかけが見えてきます。
ところが発達障害児者(特に自閉症児者)の場合、まずコミュニケーションの必要性を理解してもらうことから始めます。そして自分の気持ちや都合があるように、相手にも気持ちや都合があることに気づいてもらうことが最初の目標になります。先にも書きましたが、「相手と自分は違う人間である」「そのため人によって物の見方や感じ方が異なる」ということは人付き合いをしていく上で欠かせない価値観だと私は考えています。しかしこの価値観は当たり前すぎること、そして定型発達の人たちでも意外と忘れられがちなことであることから意識して教えないと身に付けにくいと感じています。
(自閉症児者の自我)
自閉症児者は一見自我を持っているように見えます。しかしそれは自我と言うよりは自分を脅かすものとそうでないものを分け、自分にとって快な刺激を果てしなく求め、不快な刺激を徹底的に排除しようとする欲求であり、とても不安定でその場の感覚に左右されているものです。自分と他人の間には余り境界がなく、自分が思っていることは他人も感じて当然のことであり、究極では自分が思っている通りに世の中は事が運んでくれると思っている節があります。もちろんこのようなことは自閉症児者以外の人も持っているとは思いますが、自他の境界があるために「それは無理なことだ」ということを無意識のうちに理解しているし、思い通りにならなくてもそれは仕方のないことだという割りきりや気持ちの切り替えが発達障害の人たちよりは上手だと感じています。
自閉症児者の心というのは例えれば壁も屋根もない空間にたたずんでいるようなものだと私は考えています。反対に定型発達の人は自分の家のようなものを生まれながらに心の中に持っていると思います。必要に応じて家を出入りし、家の修繕を行ったり増改築をしていくように心を育てていくのでしょう。自閉症児者といった発達障害の人たちはまず安心できる家が必要であることを知り、家を建てるにはどうしたらいいのかを学んでいくことが重要なのだと思います。