秋桜のエッセイ

支援を受ける側から支援する側へ(その2)(アスペ・ハート14号掲載分)

2007-01-23

(ことばが発達する時)
前回は1歳半ぐらいまでの発達について感じてきたことを書きました。今回はその続きの1歳半から3歳頃までの発達について書いてきたいと考えています。この時期の発達というのはことばの語彙が爆発的に増え、少しずつ生活習慣なども身に付けていく時期です。また、少しずつ大人の援助を受けながら子ども同士で遊ぶことを学ぶ時期でもあります。言い換えればこの時期に人と関るための基本ルールを身に付けるのです。

特徴として、まず私が思いつくのは自己主張の激しさです。できること、できないことに関らず、自分で試行錯誤してみる、そして自己評価の技術を高める、といった自分の状態を照合する能力もこの時期から育ってきます。難しいことばは分からないけれども子どもなりに感情が分化するし、要求することも細かくなってきます。自分の好みやどういう状態が理想なのかをイメージする能力も育ってきます。

私が一番感じるのは定型発達の子ども達は自分の中にある価値判断というものがかなりこの時期に築かれているということです。そしてその根底には前回述べたような運動や感覚のフィードバックによる学習の積み重ねが関係しているとも考えています。それと同時にこの位の年齢から自分と相手の違いを意識し、相手に自分の気持ちを伝えることの意味を模索し始めると私は感じています。

また、この時期の発達で見逃せないのは交渉する能力が発達してくる、ということです。定型発達の子どもをよく観察していると、親が「~でいいよね?」と自分の都合を言っても自分が納得しなければはっきり「イヤ」と答えますし、状況によっては親の条件を聞きながら妥協するという駆け引きも行います。子どもによっては母親がダメだ、と分かると父親や祖父母へ交渉相手を変えるといったこともします。

発達障害児の療育をしていて定型発達の子ども達との差を真っ先に感じるのがこの交渉能力です。やはり発達障害児を訓練して最初にぶつかる壁というのが弁別や選択の意味を教えることですし、そのためには「同じ、違う」ということはどういうことかを教えることから始めていきます。

ここで注意しなければいけないのは自閉症の子ども達は1:1の対応、つまりマッチングは得意だということです。よく親御さんとお話していると「こういうことは分かる」「こういうことはできる」という声を聞きます。しかし私が細かく評価していくとそれは限られた場面ではできるということで、他のパターンで行うと途端にできなくなるということがよくあります。

「いつもはできるんです」「初めての場所だからできないと思います」という家族からのコメントを聞くことは大切です。しかし専門家ならばそれと同時に「同じ意味のことばかけになのに、できないのはどうしてだろう」「この子はことばをどのように捉えているのだろう」といった疑問も同時に持ちながら接していくことが支援者には求められます。ことばと行動に何かちぐはぐなものを感じた時、それはとても重要なヒントになっていることが多いものです。それを大切にしていくことが臨床経験を積む上で重要になってきます。

私自身、自分の経験を振り返ってみて感じるのは「自閉症者にとってことばはコミュニケーションのツールというよりは、むしろ物を覚えるためのデータベースだ」ということです。例えば象ということばを覚えるには、対象物を見てそれに対して/ゾウ/ということばをマッチングさせて覚えるだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。それにまつわるイメージ、例えば鼻が長い動物だ、といったものは追加のパターンで覚えることがあっても実際にきちんと分かっているかは別次元の問題なのです。

実際絵カードでは象や大小について理解している発達障害の子どもに「本物の象って大きい?小さい?」といった質問をすると適切に答えることが難しい子どもが多くいます。カードでのサイズは小さいから「小さい」と答えるパターンなのですが、もちろん実際の象を見ていて大きさを実感している、あるいはテレビなどで一緒に映っている人と比較することができていればそれらの知識を組み合わせて応答することが可能です。しかし発達障害の人というのは知識を組み合わせることが本当に苦手です。そして日常生活で本当に「分かっている」というのは一般的にはそこまで高いレベルだということなのです。私がよく関係者に注意を促すのは「ことばの意味にきちんと注意を向けているかが大切だ」ということです。定型発達児は試行錯誤していきながら無意識のうちにことばを意味のユニットに分類していくことができます。

ところが自閉症児者は意味のユニットに分類することが苦手です。ユニット分類している場合でも一般的な意味のカテゴリーではなく、本人の興味や色といったものであることがよくあります。また先にも述べたように本人が最初に覚えた色や形以外は「違う物」と判断してしまうこともあり、「同じ」「違う」の基準が曖昧であることも多くみられます。

考えようによってはそこが発達障害児者の個性なのかもしれませんが、私は当事者としての経験から発達障害児者が個性を発揮するには一般的な基準を知っておかないと自分の考えがどの位一般とずれているのかが分からなくなってトラブルが生じてしまうと思っています。自分にとっては当たり前のことでも一般常識からみると全然当たり前ではない-そこをうまく整理できないと自立しようという時に無駄なトラブルが生じてしまうことになってしまいます。

(ことばの裏の意味)
自閉症の子ども達が理解するのに苦労するのは動詞や大小といったことばです。特に動詞は動きを捉える、という認知面の発達が絡むこと、一見違う動きでも同じことばを使うこと(例えば手を洗う、顔を洗うでも洗うという意味は同じだから洗うということばを使う)で混乱してしまいます。つまり1:1のマッチングでは処理できない相互関係が関係することだからです。

同様のことは大小にも言えて、大小のパターンがOKになっても3つのものを相対的に比べさせるような課題に切り替えると子ども達が混乱することがよく見られます。なぜかと言えばある物と比べたら大きいのに、別なものと比べると小さくなるため、答えが変わってしまう理由が分からず混乱してしまうのです。

ことばが発達するにはそのベースとなる認知面の発達が鍵になってきます。言語を指導する際には話していることばがどのような背景で話されているのか、そして認知面のバランスが偏っていないかを細かく確認する必要があると考えていますし、実際評価の際には気をつけています。

そして指導をしていて感じるのは気持ちを伝えたり、行動をコントロールするためには何か記号で表すもの(一般的には言語)が必要、という概念がそもそも発達障害、特に自閉症児者にはあまりないのだということです。そこに気づいていないからこそ、ことばで表現するよりはパニックなどの行動であらわしてしまうのだと思います。ただ思春期を過ぎると色々葛藤が生じ、それをことばにする必要性が生じることで、次第に気持ちを伝えるのにことばを使うという方法を獲得していくのだと私は考えています。

つまり発達障害児者が本当の意味でのことばの役割に気づくのは、定型発達者よりもかなり遅い時期なのだと私は思います。ただしコミュニケーションという観点から見ると相手を想定する会話や掲示板での書き込みにトラブルが生じやすいことより、やはり相互関係というのは発達障害の人にとっては難しいことなのだと考えています。

(相互関係)
相互関係の最も初期のシグナルの1つは指差しですが、自閉症の場合指差しの意味を理解することが難しいというのはよく知られています。指差しの中でも自閉症児者が比較的用いているのは要求の指差しというものです。これは欲しい物等を相手に取って欲しい時に使いますが、自閉症児者の場合自分の手の延長物として他の人を使うための手段として用いていると私は解釈しています。

一方指差しには小さい子どもが指差しをして、母親がそれを見て「あっ、~ね、きれいね」といった反応をすると子どもも嬉しそうに母親と顔を見合わせて笑う、といった使い方があります。これが共有の指差しと言われる現象で、共同注視という一緒に場面を共有したいものを指差し、相手の気をそちらへ向けることが目的です。定型発達児の場合この動作が1歳前後に出現します。前回書いたように相手にも気持ちがあることを理解しているため、相手がそれに気づいてこちらに気持ちを向けてくれることがとても楽しいのです。

そして一番の違いは自分がした行動を相手が受け取り、それについて返答することを一連のコミュニケーション活動として認識していることだと私は思っています。それと比較してみるとかつての自分を含めて発達障害児者のコミュニケーションというのは、自分が発信することばかりに意識が向けられており、自分が発信したことがどう相手に受け取られて返ってくるのかまではあまり重要視していないということに行き当たります。つまり相手の立場というものよりも自分が何を言いたいのかが大切であり、相手との相互交流というのは想定外のため、かなり意識して学ばなければ身に付かないものであると言えます。

(初期の支援)
この時期は周りのことよりも自分の感情を優先させるために危険などにも遭遇しやすいので親も神経を使います。定型発達のお子さんも迷子になったり、不慮の事故に遭いやすい時期でもあります。親としては成長を感じる反面、子どもの行動に振り回されることも多くなります。また個人差も大きく、同じ暦年齢でも発達のばらつきがかなりあります。

そのため行動観察だけでは発達障害児と定型発達児の区別がつきづらいのも事実です。実際発育・発達相談をしていても「周囲の人たちに相談しても「みんなこんなものよ」で片付けられていた」「個人差が大きいから様子を見ましょうと言われてきた」ということで親御さんたちも「私の育て方が悪かったのか」と悩んだり、「そのうちできるようになるから大丈夫」と楽観してきたケースが多くみられます。支援の手をどこで差し伸べるかは今の時点では自治体によって大分異なっているのが現状でしょう。

また専門家は「早期に療育すればするほど効果が出やすい」と思うだけに、善意から親に対してあれこれ言ってしまいがちです。自分が勧めていることはいいことであって、それを親が断るなどということは想定外だったりするのです。

でも親の側からしたら健診会場で他のお子さん達との差を感じている時に医師や保健師といった専門職の人から障害について触れられたらいい気持ちはしないでしょう。「いきなり言われてショックだった」という話は色々な所で聞きますから、相談のルートに乗ってラポール(信頼関係)が築けるまでは付かず離れずの距離感を心がけることが大切だと思います。

中には「とにかく専門機関へ行ってください」と勧めるケースもあるようですが、そのような経緯の場合、親御さんが訓練の意味や必要性を理解できていないためにその説明にかなり時間を費やしてしまい、子どもへの訓練がうまくスタートできないことがあります。ですから少なくとも何のために訓練を行うのか、訓練を行うことでどのようなメリットがあるのかは最低限説明し、親が納得しているのかをきちんと確認して欲しいと臨床現場にいた者として考えています。

現在保健センターなどの発育・発達相談の業務を行うことがあるのですが、自治体の窓口機関の場合、親がその気になるまでは発育・発達相談で定期的にフォローし、できたら訓練士が評価や初期の訓練を行う方が専門機関へ移る際にもスムーズだと実感しています。親にも実際訓練している様子を見てもらうことで「これだけ子どもを細かく見てくれるんだったら、もっと訓練ができる所へ行きたい」「具体的なアドバイスがもらえるし、何をしたらいいか一緒に考えることができる」という訓練の効用を具体的に知ってもらうようにしています。

なぜそこまで親に対してこちらが配慮するか-それは親への指導が療育の中で大きな割合を占めているからです。よく訓練士の間で言われていることばに「親指導がうまく行けば、指導の半分は成功したようなもの」というものがあります。やはりどんなに腕のいい指導者であってもいつも一緒というわけではありません。それは教師であっても同じことです。長い時期一番一緒にいて子どもに影響力があるのは親ですし、最終的な責任を伴うのも親になります。ある意味親がいいマネージャーになって子どもの問題と向き合い、自力で考えていく力をつけてもらうようサポートするのも訓練をする者には大事な仕事の一部なのです。

そして私が一番皆さんに知って欲しいと思っているのは、発達障害であろうとなかろうと、療育(専門家や周囲の人からの適切な働きかけ)というのは子ども達にとってはとても有効だということです。本当の意味での療育というのは子どもの状態を適正に評価した上で行いますから、どんな子どもにとっても有益なものです。実際定型発達のお子さんと遊んでいる時にも療育的なアプローチを行うと親達がびっくりするほど子ども達が生き生きしてきますし、積極的に遊びを展開していきます。こちらは危険などは配慮しつつ、子ども達が仕掛けてくる遊びに対応してきちんと終わりを作る、ということを気をつけていればとても楽しい時間を過ごすことができます。むしろ定型発達の子ども達の方が療育的な関わりを楽しめるのです。

それだけに療育というものを勧めると「問題がある子どもが受けるもの」という偏見があるのが本当に残念でなりません。実際保健師たちと話をしていても親もかなり抵抗があるケースが多く、「何でうちの子がそういう訓練を受けなければいけないのか」という反応をされることもあるそうです。保育園や幼稚園から「親にも了承を取りましたから」ということで問い合わせがある場合でも、親に確認を取ると園側とは全然違う反応が返ってきてしまい、親と園の認識の違いを調整して問題を再確認する必要があるケースも少なからずあるのです。

どこへ相談したらいいのか分からないために私たち発達障害の専門家にかかるまでに時間がかかるケースも多いのかもしれませんが、親が専門家に会うまでに抵抗があるケースの場合、ケースワーカーや保健師といった窓口になる人たちの力量が問われてきます。専門家を育成する、というと医師や心理士という立場ばかりに目が向きがちですが、一番最初に家族に会う職種の人がうまく子ども達を観察できなければ相談ルートに乗せることができません。ですからもっと発達障害に関る全ての職種の人たち全体の質を高めていくことも大切になってきます。

(支援者が気をつけるべきこと)
それと同時に私が留意していたのは「この子は療育をスタートしてもいい環境にあるか」ということでした。いくら周りが療育が必要、という認識であっても実際子どもを療育の場へ送迎したり、こちらが出した課題を実行していくのは親です。よく実習生や後輩を指導する際にも注意していましたが、療育施設にいると親が子どもを連れてくるのは当然、という感覚に陥りがちです。しかし親だって家事や仕事といった用事はたくさんあります。他の家族の面倒を見ている場合、そのスケジュールだって考慮しなければなりません。そのような色々な事情をクリアして決められた時間に間に合うように療育に通う、ということが難しいケースは意外に多いものです。

親自身が病気や障害を持っているケースだと自分の管理が優先されます。子どもにとって今これが必要、という場合でも精神的・肉体的事情から難しいということだってあるのです。従って療育を進めるにあたって協力体制がどの位整っているか、生活基盤がしっかりしているかを含めて調査をする必要があると私は考えています。また親の中で心理的な葛藤を抱えているケースも療育に向かないことがあります。このようなケースの場合、子どもを指導して変わっていくことで親も新しいステップを踏み出せるタイプか、親の心理的な安定を優先させた方がいいタイプかを見極めて対応していきます。

今後支援策を進めていく上で一番問題になるのは人材確保・人材育成だと私は考えています。子どもが育っていくには多くの人が関っています。関係者が子どもに合った支援策を作り、どうやって協力していくかが大きな課題になってくると思います。

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