秋桜のエッセイ

支援を受ける側から支援する側へ(その3)(アスペ・ハート15号掲載分)

2007-03-15

支援を受ける側から支援する側へ(その3)

(就学前の発達とコミュニケーション)
今回から2回に分けて3歳から小学校入学の辺りまで書いていこうと思っています。前回までは私自身の体験は支援者としての視点が中心でしたが、今回からは自分が体験してきた記憶もはっきりしてくるので、より内面から訓練の意味について書けると考えています。また、この時期は幼稚園や保育園といった集団への参加が増えてくる時期です。同年代の子ども達と遊ぶ機会も増え、子ども達も相手を意識することが多くなります。

今回は療育をして「こういうことをもっと大事にしてほしい」と思ったことを書こうと思っています。そして次回は私が受けた療育のことやこの時期に覚える文字や数について私が感じていることについて書こうと考えています。

まず親御さんたちにはぜひ就学前のこの時期を大切に考えてほしいと願っています。「三つ子の魂百まで」という諺もあるとおり、発達障害があろうとなかろうとこの時期は成人後のライフスタイルや価値観の基礎となる事柄を学びます。着替え、整容、トイレ、食事といった身辺自立の能力も身に付いて行きます。将来自活していく、という視点からも小さい頃からの習慣づけておくことはとても大切です。実際私は整理整頓が苦手で母も大分意識させていたのですが、どうも身に付かなくて大人になった今でもかなり意識化して取り組まないとあっという間に部屋が散らかってしまいます。小さい頃は必要性を感じていなかったため指示してくる母に対して不満でしたが、大人になった今は母の意図がよく分かります。

今思えば母は本当に大きな視点で私を育ててくれていたのだな、と改めて実感しています。最近療育のことで母と話をする機会があるのですが、彼女が私を育てることでまず考えたのは「仕事をして自活できる能力を身に付けること」ということだったそうです。そして「できたら共に歩める人と結婚してほしい」ということが二つ目の願いだったそうです。ある時「親というのは大抵の場合は子どもより長くは生きられない。私が死んでから色々な人と助け合いながら生活して欲しいと思ってきた。何とかその願いがかなえられそうだからホッとした」と話してくれました。

この経験を踏まえて私は日常動作の中でできそうな物を探して(例えば指先の力を強化したい場合、洗濯物をピンチから外すのを手伝わせる、といった手伝いをやってもらう)一緒にやってもらうことにしています。よく訓練と同じことを家でもやらせようという親御さんがいますが、私はパターンを広げるためにもある程度のレベルになったら日常生活に取り入れられる形にアレンジしてもらっています。付き合う余裕がある時だけでもいいから、とお願いするのですが案外「親子のいいコミュニケーションの時間になった」「わざわざ遊ぶ時間を作らなくてもいい分、楽だった」という感想をもらいました。

子どもの時代だからこそ親子で何かをして「人と関ることが楽しい」という経験を積むことはとても大切ですし、日常生活の中にこそ療育の基本というものがあると私は考えています。私自身幼い頃母と一緒にお菓子などを作ったり、父に仕事帰りの車に乗せてもらってドライブに連れて行ってもらったことは、今でも楽しい思い出として記憶に残っています。別に特別なことではなくても「あんなことがあったな」「あの時親はああやっていたな」という思い出や記憶が案外大事だったりするものです。

そして成人した当事者にお会いするとどれだけ親が「生活力」を身に付けさせる工夫をしていたか、そして親自身が自分の人生を主体的にかつ一生懸命送ろうとしているかが大事なポイントになっているのだなと感じています。能力に関係なく、人間である以上日々の生活にまつわることはやらなくてはなりません。家事というものは他の仕事に比べて1段低く捉えられがちです。でもそれは誰もがすることだからこそ「できて当然」という目で見られるからなのでしょう。

そして意外とどうやったら効率よく家事ができるかということは学校や家庭などではあまり教えてはくれません。案外できる人に聞いても自己流にやっていることが多いものです。しかも人にとってやりやすい方法が微妙に異なります。でも色々調べてみるとそこにはやはり理論があり、スキルがあります。ただそれを意識化している人が少ないのです。この「一見誰もができて当然なんだけど、実はルールやスキルがある」というのが曲者で、発達障害の人にとってはこれがとても難しいことなのです。実際社会人として仕事をしていて「これって実は発達障害の人には大変なことなのでは?」と感じることがよくありました。

例えば書類の整理、物の管理、電話の応対、事務連絡の伝達、他の職員との付き合いなど、仕事というのは本来の業務以外にも細かい仕事がたくさんあります。また、職場によって明文化されていないルール(例えば掃除当番、お茶汲みなど)も存在している場合もあります。これはコミュニケーションと同様、「スムーズにできないと苦労する」分野なのです。そしてそれらを円滑にするにはコミュニケーションのスキルが欠かせません。ですから発達障害の人にとって仕事を続けるというのは意外に難しいことだと言えます。発達障害関係の人と話をしていると「能力が高いのに…」といったコメントをよく聞きますが、仕事をしていく上で大事なことは仕事そのものの能力以外にもたくさんあります。支援者はそこを意識して幼い頃から関っていって欲しいと思います。

だから「子どもが嫌がるから」「自分がやった方が楽だから」「面倒くさいから」という理由で習慣づけをあきらめるのはとても残念なことだと私は思っています。発達障害の子ども達というのはやったことがないことはできないケースが多いのです。「こっちはできるからあれもできて当然だろう」という考えは能力的にはできたとしても経験がなければ難しいと思った方がいいでしょう。そしてこれは言語やコミュニケーションなどの学習についても同じことが言えます。何も訓練室の中だけが療育ではないし、訓練室でできていても実生活の中で般化(日常生活でもできること)されなければ意味がないとも思っています。

そして子どもというのは発達障害であろうとなかろうと大人が一生懸命自分と向き合っていないとそれを見抜きます。そして大人がどの位自分に対して本気なのかを試すような行動に出てきます。親御さんが「こういうことをして困る」という訴えをされることがあるのですが、よく観察していると実は親がその行動を誘発していることがあります。

自閉症児の場合、それがコミュニケーションのパターンになってしまっているケースも少なからずあります。だから本来あるべきコミュニケーションを取ろうとすると戸惑ったりパニックを起こすことがあります。これを修正していくことはとても難しいことであり、支援者もある程度毅然とした態度が必要になります。人と向き合うことがどういうことか、人と交流することが生きていくうえでいかに大切か、自分の行動に責任を持つとはどういうことかを身をもって教えていかねばなりません。どうも日本では対決姿勢というのは好まれないため、親御さんの中には驚かれる方もいらっしゃるのですが、社会の中で生きていくには時には闘う姿勢も必要だし、親以外の人間もたくさんいる以上、色々なパターンのコミュニケーションがある、ということも知っておくためにも必要なことだと私は考えています。

実際療育の現場でも私が子どもに対して聞いているのに横からどんどん親御さんが答えてしまうことがよくあります。中には訓練中に子どもが答えるべきところを親が脇からどんどん口を出したり手を出してしまうこともあります。親としては「子どもが困っているだろうから助けてあげなくては」とか「せっかく療育の場所に連れてきたのに何をしているのか」という気持ちから生じた行為なのでしょうが、それは子どもを一人の人格として認めていないことにつながります。そして子どもに「考えないでいいの」「あなたは間違えるんだから」というメッセージを送っていることにもなってしまいます。子どももそれが当たり前になっているため、家族を介してでしか人とコミュニケーションと取ろうとしなかったり、間違えることを必要以上に怖がってしまうことになってしまいます。

このような親御さんの場合、子どものペースに合わせることが元々難しいケースのことが多いため「子どもには子どものペースがあるから合わせることも時には必要だ」ということも少しずつ伝えていました。それと同時にこのようなケースではなぜイライラするのか、親御さんが子どもに対してどんな気持ちを抱いているのかを支援者が丁寧に聞きだしていく必要があります。大抵の場合は子どもの状態を受容しきれない事情などが隠されていますから、そこを改善するための支援が場合によっては必要になります。前回も書きましたが、このような反応が出てくる場合は経済的、あるいは家族の事情(夫や祖父母たちの無理解、介護、または母親自身の問題)などで母親自身に余裕がないケースが多いものです。

言語面もこの時期から文字や数字といった学習の基礎となる概念の理解が育ってきます。そしてこれらの概念が発達するにつれて順番や時間といった目に見えない現象の理解が進んできます。音の成り立ちや数なども分かるようになるため、しりとりや簡単ななぞなぞといったことば遊びも可能になり、身の周りのことへの関心も高まってきます。「どうしてお日様は夜になると沈むの?」「どうして葉っぱの色は緑色なの?」といった答えるのが難しい質問を大人に投げかけてきます。

描画を見ていても3歳前後は縦線、横線、十字や円が描ける程度ですが、3歳半前後で顔を描くようになります。早い子どもは4歳前に腕や脚が出てきます。そしてだんだん人物が描けてきます。つまり人がどのような姿なのか本当の意味で客観視できるのは定型発達でもこの時期だということなのです。また4歳では四角形、5歳では三角形、6歳ではひし形の模写ができるようになります。

つまりこの時期に就学へ向けて必要な心身の機能が発達してくるのです。それは私から見れば本当に気の遠くなるくらい膨大なもので、「人間というのはよくこれだけの短期間でこんなに多くのことを身に付けられるものだ」と感心してしまいます。不思議なことに多くの国で学校制度が6歳前後に始まっていますが、やはりこれは自然の摂理(=定型発達)に即しているのだな、と子どもの発達を知れば知るほど痛感しています。

(支援者と家族の信頼関係)
発達相談や療育機関で働いた経験から考えると、この時期に親御さんは初めて支援職の人に会う機会を持つことが多いと思います。やはりこの頃に集団生活が始まることで今まで何となく感じていた疑問や他の子ども達との違いが分かってくるからでしょう。しかし大抵の場合は疑問に思いながらも「そんな訳ない」と打ち消して毎日を過ごしてしまいます。そして第三者から指摘をされるとそれが辛くなって否定したり付き合いが遠のいてしまうこともあります。

でも本当はそういう時期だからこそ早めに発育・発達相談といったサービスを利用してほしいと願っています。ただ人というのは自分にとって心地いい情報を優先して受け入れるものです。周りの人は安易に「大丈夫」ということばはかけないで欲しいのですが、まずは相手の話を聞いた上で、様子を見て「こういうサービスをやっているみたいだよ」といったさりげない情報提供をすることが大切なのだと思います。

それだけわが子に何かあったら、ということに対して親は恐怖を抱いています。よく私も親御さんから「この子は自閉症なんですか?」「この子に障害があるなんて…」「私のせいなのかしら?」と相談時に不安を打ち明けられることがあります。反対に障害が分かってホッとする親御さんもいますが、分かった所からまた「これからどうなっているのだろう…」という不安も芽生えていきます。

障害があってもなくてもその人であることは変わりはないのですが、どうしても診断が付くことでかえって「発達障害だから」という考えになってしまうのはどうかと私は考えています。もちろん発達障害の特性で色々な行動を起こしてしまうのですが、発達障害が全てではないのですから子どもの行動をよく見て原因を探っていくことが大切だと思います。

そして私が一番願っているのは、ぜひ定型発達というものを勉強してほしいということです。昔は兄弟が多かったため、自然と「この位の年齢の子どもはこういうことをする」というのは肌で分かっていましたが、今は残念ながら兄弟の数も少ないし、様々な年齢の子どもが一緒に遊ぶ機会も減っています。初めて赤ん坊を抱くのは自分の子どもを産んだ時、という人が意外に多い、ということも知り合いの小児科医から聞いたこともあります。おむつ交換や年下の子どもの面倒を見る、という経験も知らない世代が母親になっている、ということをもっと意識してほしいのです。つまりその位子どもを育てることが不自然な状況になってきているのです。

以前なら「この位の年齢ならこういうことをする」というのがわりと誰にでも感覚としてあったのですが、初めての子どもだったりすると発達に遅れやバランスの悪さがあっても「こんなものかな」で終わってしまいます。おまけに時代の変化や子育ての常識もかなり変化しているため、祖父母の世代のアドバイスも今は必ずしも適切とは言えなくなってきています。

それに「何となく分かっている」というのも実は曲者で、定型発達の親子の様子を見ていても「それはその子の年齢から考えても無理でしょ!?」と思うようなことを子どもにさせようとすることが案外見られるのです。当然子ども達はできないから親もイライラしてお互い険悪な雰囲気になってしまいます。そういうやり取りを見るにつけ、全ての親や子どもに関る仕事をしている人たちに子どもの状態を適切に見極める方法というのをこれからはもっと意識して教える必要があるのでは、と思わずにはいられません。まして発達障害があるケースだとより一層親子間でイライラしていることが当たり前の状態になっている場合があります。まずは親御さんに子どもが分かるためにはどんな関り方が必要かを教える必要があります。

そういう意味でも療育という場所で親以外の大人とじっくり関わりを持つというのはいいことではないかと私は考えています。親も第三者の目で子どもが他の人と関っているのを眺めてみる、というのは案外ないものです。実際多くの親御さんから「うちの子どもがなぜこういう行動をするのか、どういう指示だと通りやすいのかといったことがよく分かった」と言われました。

私がよく後輩や実習生に指導していたのは「ぜひ知り合いの子どもがいたら遊ばせてもらいなさい」「食事の様子などをよく観察しなさい」ということでした。知識で発達を知った上で実際に関ってみることで「こういうことができるにはどんなことが土台に必要か」「訓練ではどうやって工夫したら子どものモチベーションが上がるか」といったことを考えるようにも指導していました。

そして私が後輩や実習生に指導する際に一番力を入れていたのが「あれ?」と疑問に思ったことについてはとことん考え、理由を言語化していくことでした。漠然としていてもしっくりこないということは何か理由があるからです。それを「臨床家の勘」と一言で片付ければ簡単ですが、私は臨床家だからこそ理由を突き詰めて考えて欲しいと思っています。それができて初めて他職種の人とも情報交換ができるし、何よりご家族に信頼してもらえるのです。

支援者は自分の職種をベースにしつつも、それだけにとらわれず、より生活に密着した視点を持ってほしいと思っています。そして何よりもご家族や他職種の人に「あの人に相談してみよう」「あの人の言うことなら聞いてもいいかな」と思わせるだけの支援職としての実力とコミュニケーション能力を身に付けることが大切だと考えています。



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