秋桜のエッセイ

支援を受ける側から支援する側へ (その7)(アスペハート19号掲載分)

2009-02-10

この連載も折り返し地点を過ぎ、だんだん小学校の高学年の話になってきました。この時期は「9歳(一部では10歳)の壁」という思春期への足掛かりになる発達課題があります。定型発達のお子さんでもこの時期というのは思考の質が変わる時期であり、具体的な思考から抽象的な思考への移行期です。

この時期のテーマは知っていることの共通性や関連性を見つけ、世の中のルールを捉えていくことにあります。批判的なものの見方を本格的に身につけ、自分はどう考えているのか、そもそも自分とはどのような存在かを考えて行くベースとなります。

学習面では今まで身につけてきた事柄を本格的に応用させる段階です。例えば掛け算は足し算の応用であり、割り算は掛け算の応用になります。その他の教科についても今までの経験を組み合わせてより高度な課題に取り組む時期です。

社会性についても5歳前後から育まれる「相手はどんな気持ちなのか?」といった心の理論が具体的な行動として形に移せるようになります。「相手が何を望んでいるのか?」「どうしたらお互い納得するのか?」といった人と協力して何かを行う、といった今までのただ遊ぶということから目的を持ってチームで取り組むという課題へと変化していきます。

1.思春期への入り口

小学校へは一応休まず通っていましたが、授業時間以外の居心地の悪さというのは依然としてありました。そんな私にとっての慰めは本でした。日本語を文字を通して習得した私にとっては文字というのは第一言語であり、一番学習するのに適した教材は本でした。

とにかくこの頃は何かに取り付かれたかのように本をずっと読んでいました。もちろん多少は友達と遊んだり、習っていたピアノを弾いたり、音楽を聞いたりはしていましたが起きている時間の大半は読書に時間を充てていました。授業中も教科書をずっと読んで勝手に問題を解きつつ、ついでに宿題を済ませていました。

そんな私にとって一番苦痛だったのがグループ授業や班行動でした。今思えば目的や注意するべき点などを確認し、それぞれが得意な所をどう生かせばいいか、といった配慮や見通しを先生方がもう少し出してくれていればよかったのでしょうが、子どもだけで行動することは私にとってはとても大変なことでした。

発達障害の子どもたちが成長していく段階で、はっきり目に見えて問題が見えてくるのがこの時期かもしれません。それまではなんとか授業やコミュニケーションなどに付いて行けた子どもたちも、周りの子どもたちがどんどん変化していく状態になります。

好きな人、好きなテレビ、好きな音楽をできたら一緒にいる人と語りたいという気持ちはありましたが、どうも好みが合わなくて彼らの流れについて行けないことでいじめに遭ったり疎外感を覚えたりしたものでした。

私にとっては周囲の子どもたちと興味を持っていることがかなり違っていたので、それも原因としてあったのかな、と思います。母親も比較的哲学書や心理学に関する本を好んで読んでいたので家ではあるテーマについて語り合ったり議論をしあう、というのはよくあることでした。

音楽もピアノを習っていた関係でクラシック中心だったため、あまり歌謡曲を聴かなかったというのもありました。なので当時はやった音楽は学校で友達から聞くのですが、知らないことでずいぶん馬鹿にされたものです。中には上手に教えてくれる子もいましたが、あからさまに意地悪なことを言ってくる子も結構いました。

自分の好みをうまく隠して調子を合わせることもできたのかもしれません。しかし自閉症やアスペルガーの人間にとっては隠し事が苦手な人が多く、それは嘘を付いていると感じてしまうことがあると思われます。

確かにグループで行動することは大切だとは思います。ただ子どもというのは前にも書きましたが純粋な半面、とても残酷な面も持っているのです。特に私の年代は「好きな人同士でグループを」というのが多かった時代でした。これはある意味友達ができにくい子どもにとってはとても配慮のないやり方だったと思います。

これには先生方にも余裕がない、という学校側の事情もあるのかな、時折先生方とお話ししていて感じることがあります。学校という空間を考えると30人以上のクラスに先生が1人という状況はなかなか細かいところまで目が行きとどかないのでは、と思います。逆に個別指導をメインにしている立場からすると「よくあれだけの人数を一度に指導することができるものだ」という気持ちになります。そうやって考えてみると班という制度も日本の事情から生まれたものなのかな、とは思います。

視点を変えてみるとそもそも友達がいない、というのはそんなに悪いことなのかな、という気が私はするのです。小中学校では「みんな仲良く」「友達をたくさん作ろう」といった標語が掲げられ、友達がたくさんいる子はいい子だ、というイメージがあります。大人になった現在、「あの標語は何だったのだろう?」と首をひねってしまうこともあるのです。

どうも一般には友達がいない=かわいそうという発想になるようですが、友達が少なくても深い付き合いをして満足いる人もいます。反対に友達は多くても不満を持っている人もいます。生きて行く上では一定の協調性は必要ですが、発達障害の当事者にとって必要以上に人付き合いにエネルギーを使うことはかなり負担が大きいものです。状況によっては生きていくためのエネルギーも奪われかねません。成人当事者の方を見ていて感じるのが、それまでの人間関係に対してエネルギーを使い果たしてしまった方が多い、ということです。

本来人付き合いをすることの目的は生きて行く上で自分一人では難しいからこそ、人と関わることで様々なものを得て、そこから人とつながっていくことで生きて行くパワーをもらうことだと私は考えています。

この時期を振り返ってみると少し年上の中高生以上の人や、大人と付き合うことで案外学校での孤独を乗り切れた面がありました。趣味の世界などで色々な人と会う機会というのは探せば結構ありますから「世の中は色々な人がいるんだ」ということをこれを機に学べると居場所作りにつながるのかもしれません。

こういった人付き合いの経験を通して自分にとって何がよかったかを考えると「人としてきちんと相手と向き合うとはどういうことか」「人として守らなければならないルールとはどういうものか」ということを教われたことです。この経験があったからこそ、大人になってからの人間関係の幅ができたし、人と関わることを楽しめているのだと思います。

2.家庭と学校とのギャップ

我が家は母親の教育方針がかなりはっきりしており、周囲の家とは明らかに違っていました。大人になってみるとかなりそれが功を奏している面がありますが、小中学生の頃はそのギャップにかなり悩みました。

母は彼女なりに私を守ろうと学校の先生方と話し合ったり、いじめていた子どもの親御さんとも交渉しようとしていました。しかしかえって母が動いたことで問題が大きくなったこともあり、いじめがひどくなったこともありました。私の母はフェアではないことに対してはとても厳しく、子どもに対しても対等であることを求めましたし、学校の先生やいじめをしていた子どもの親にもきっぱりとした態度でクレームを付けていました。

社会人として働いてみると母の強すぎる正義感というのはアスペルガーだった私を育てる上ではとても大切なことだったと思う反面、「世の中はそんなにルール通りにはいかない」と改めて感じることも多いです。私の父は運転手という仕事柄まさに人間の裏側を見て仕事をしている人だったので、何かにつけて父は母に「そんな綺麗ごとばっかり言うもんじゃない!」と言っていました。

臨床現場で様々なお母様方とお会いしてきましたが、私の母のようなタイプはあちこちでトラブルを起こしてしまいがちです。母の求めていることは正論なので誰も反論のしようがなく、それに応えきれない事情などがあるとそれをずっと覚えている人なので、人とのつながりを上手に保つことが難しくなってきます。人を許すことが苦手なので相手が間違っていると思うと、とことん責めてしまう傾向もあります。

幼心に母親も私を守ろうと頑張ってくれていることが分かるだけに余計それを言い出しにくいこともありました。あの頃の私を振り返ってみると案外周囲に気を遣っていた子どもだったな、と思います。ただそれを他人に伝える術を知らないために黙っていたり行動に移せずにいて、大人たちに「もっと気を遣いなさい」「気のきかない子ね!」と叱られていました。

それと同時に子どもの狡猾さを見抜けない人が多い、ということです。それは大人自身ある程度その辺りのずるさを持っていて、それを否定すると自己矛盾が生じてしまうからだと私は考えています。案外大人でも自分の中の狡さというのを自覚していない人は多くて、お互いその辺りをうまくすり抜けたり妥協したりして生きているものです。なあなあにできない分、当時の私はかなり混乱していたと思います。

思春期になるにつれてだんだん子どもは外の世界とのつながりが重要になってきます。親の知らない自分の世界を作ることは思春期から青年期にかけては重要な発達課題になります。私にとって救いだったのは教会に関しては献金などの協力以外はノータッチにしてもらえたことでした。これは母自身若い頃教会に通った経験があるため、教会がどのような場所であったかを知っていたことがいい方に働いたようです。

そのため時折牧師夫妻と電話などで挨拶ややり取りをして様子は聞いていたようでしたが、それ以外は父が教会について何か言ってきても「キリスト教だとこういう習慣があるから」と間に入って説明してくれていました。

教会の前には図書館があり、日曜学校が終わるとお昼まで読書をするのが当時の習慣でした。本好きの私にとってはまさに図書館は天国のような場所で、学校で辛い事があっても「給食がない土曜日が来たら翌日は教会と図書館へ行ける」ということが支えになっていました。

子どもにとってこういった居場所というのはとても大切なことだと思いますし、特に発達障害の人にとっては自分と向き合うためには必要なのだと私は感じています。

3.アイデンティティーと疑いの目

思春期というのは大人の裏の世界に気付くことで既成の世界を疑うことも大きな課題になってきます。今までは親の価値観を信じてきた子どもたちにとっては大人を疑うというのは心身ともにとても大きなエネルギーを使うことになります。

私自身は自分の障害をはっきり認識しはじめた小学校4,5年生頃から親の言うことをだんだん疑うようになってきました。親が言っていた「あなたは普通じゃないから、普通の子になるためには普通以上の努力が必要だ」ということばに対しても「それは、私が自然であることは不自然なことなのか?」と反発も覚えました。そして親が時折障害のある子どもとして私を生んでしまったことに対して負い目を持っていることにも普段の態度と矛盾していると感じていました。

私が発達障害として生まれてきたこと自体は好きでそうなったわけではない。障害を持って生まれることはそんなに悪いことなのか?そのままの私ではいけないのか?

そんな疑問を持ちつつ、通っていた図書館ではよく神話を読んでいました。教会では聖書も読んでいましたが、私にとって聖書というのは経典というよりは神話などの一種といったものでした。偉人伝もよく読んでいました。今思えば他の人はどう考え、問題を乗り切ってきたのか、どうやって人の協力し合ってきたのかといったことを本で勉強していたのかもしれません。

最近コーチングを勉強していると優位感覚という話が出てきます。人間得意な感覚というのがあるから、同じことを学ぶにしてもその人の優位な感覚を用いて学んだ方がやりやすい、という考え方です。これを聞いた時、私は「何て当たり前のことを…」と思ったのですが、コーチングを介して知り合った人たちに聞くと「それはあなたは人を支援する業界で働いてきて、その辺りが極端に偏っている人たちを見てきているからでしょ」と指摘されました。

逆に言えば私の場合通常の学習方法ではうまく身につけられなかったからこそ、無意識のうちに自分に合った方法で試行錯誤しながら人間関係や知識などを身につけてきたのだと思います。

私の場合は言語が絡むことに関してはことばで一度説明されてからの方がイメージしやすく、かつ視覚が強いので文字で繰り返し学習できる環境というのが学習して行く上ではいいようです。逆に身体を使って覚えていくことは一度見本を見て大まかな流れをつかみ、さらに全体を模倣しながらだんだん細部を覚えていった方が効率がいいのです。

そういう意味では教会も私にとってはとても良い人間関係を学ぶ場所でした。その教会はとても小さな教会で、教会全体の合宿に行くにしても全体で40人前後で、日曜学校も小学生までのクラスで20人ほどという人数でした。そうは言っても20人も子どもが集まれば何らかのトラブルは必ず起こるもので、陰口を叩かれたり小さな嫌がらせには遭ったりはしていました。でもやはりそういうことは大人の目が多い分、気付く人がちゃんといてその中で大人が介入しながら、時には本人たちに考えさせながら問題を解決するような仕組みになっていました。

この経験というのは今振り返ってみてもとても大切な時間だったな、と思います。小学校高学年になってくると遠足や合宿では自然と自分より年下の子どもたちの面倒も見なくてはならず、以前は「なんて身勝手な子なの!?」と非難された私でもそれなりに年少組の子どもを遊びながらではあっても面倒を見るようになり、親御さんたちに「ありがとうね」と感謝される程度にはなりました。

悩みつつも自分なりのペースで人付き合いをしてみると、自分の母が口では人付き合いを尊重しているようなことを言いながらもあまり人付き合いをしていないことに気づきました。年賀状などは出してはいましたが、外出して友人と会うことがほとんどなく、ずっと家にいて内職をしているような生活でした。

後で分かったのですが、母が外出しない理由は父にも原因があったようです。農家の家で育った父からすると女性というのは働き手であり、家のことや夫のサポートをテキパキとやるのが当たり前で、夫の稼ぎで勉強したり外出するなどというのはもっての他という感覚だったようです。父が育った地域は未だに「男が働き、女はサポートする」という感覚が抜けきらない場所なので、母にはそういった役割をかなり強く求めていたようでした。

そんな父でも娘たちが勉強をする必要性は感じていたようです。父なりに業界の一流人と話をしていく中で「今後は女性も学歴や資格がないといけない」「これからは4大卒、業界によっては大学院を出ていないとエキスパートにはなれない」という考えを理解したようです。父にとっては娘というのは妻とは全然違う立場のようで、その辺りの矛盾も母にとっては苦痛だったようでした。

母にしたら若い頃勉強していた心理学などの知識や教師として働いてきた経験が子育てでしか活かせない、というのはかなり不満だったとは思います。娘に対して時に甘い父の態度も不満だったようです。

ちょうどこの時期父の仕事が忙しくなってきた、というのも両親の間に波風が立つ理由の1つでもあったようです。時代はちょうどバブル経済に差し掛かってくる頃で、父が勤務していた会社も役員は平日は毎晩接待、休日はゴルフという日々が続いていました。平日は父の顔を見ない日が続き、「そう言えばお父さんに会ったのって何日前だっけ?」というのが食卓の話題になるようなこともありました。

母にしたら娘たちはだんだん思春期に入って自分の目の届かない世界へ行こうとしているし、夫は仕事で忙しい、ということでかなり孤立感があったのだろうと思います。現在仕事の中で母親たちと面接していると同様の閉塞感で悩んでいる人は多い印象があります。

交流分析を勉強していると時間の使い方のバランスが大切、ということが出てきます。人間というのは外に出てばかりでもエネルギーを使い果たしてしまいますし、逆に閉じこもっているとそれはそれでエネルギーをうまく交換できないためにゲーム(繰り返し人間関係をこじらせたり、非建設的な結果を招いたりする行動パターン)を始めがちになります。

今考えると我が家もその悪循環に飲まれつつあったのかもしれません。ちょうど親戚の間でもトラブルが頻発し、両親はその解決や子育てということで何とか絆を保っていたようでした。そのトラブルを見て育った私はお金や血縁関係のややこしさや難しさについて10代の頃から悩むことになりました。

そんな状況のため、私にとっては家も学校もあまり安心できる場所ではありませんでした。とにかく同級生に相談してもそのような事情というのは当然理解してもらえなかったし、あまりよそで話してはいけないと親からも口止めされていたので一人でもやもやとしたものを抱えながら生活していました。

ある意味本を読んでいる時だけが心が平和で自分のままでいてもいい時間でした。今思えば現実逃避の手段として読書をしていた面もあったのですが、もう少し両親が協力し合って子どもを守ってくれたら良かったのでは、とも思います。

今支援の仕事をしているとかつての私の両親のように仕事に忙しい父親と家庭で閉塞感を抱えながら子育てをしている母親というスタイルはとても多い印象を持ちます。家族療法でも夫婦がユニットになっていることが家族の基本と言われています。

現在ようやく日本でも仕事と家庭のバランスについて語られるようになり、父親も以前に比べたら育児に参加することが増えてきました。今の社会制度では本人を支援することばかりに目が行きがちですが、家族を1つの単位として考えることが今後医療・福祉政策を考える上では大切になってきます。特に子どもへの支援の場合、家族への指導についても何らかの支援策が必須だと思います。

この位の年齢になってくると子どもであっても自分という人格を意識するようになり、なかなか親に本心を話しづらいことも出てきます。子どもなりに親のことを心配したり、親の気持ちや期待に添えないことを気にしている子というのは意外に多いものです。

よく自閉症の人は他人の感情が分からない、といった説明があります。確かに細かい感情や態度について定型発達の人のように直感的には分からないでしょう。しかし雰囲気はそれなりに察することはできますし、よく分からないだけに混乱するのだと思います。逆に感覚だと詳細まで理解できないだけに数学の証明問題を解くように1つずつ過程を経ていく必要があります。そして直感的に分かるような感覚を身につけるには小さい頃からのトレーニングが欠かせません。大きくなってからの場合は成人が第二言語を学ぶようなスキルが必要なのだと思います。

現在我が家では自分の気持ちを伝える時はルールを設定した上でどういう風に感じたのかを事細かに伝える必要があります。そういう過程があることで夫は私がどういう気持ちなのかが分かるのだそうです。そしてそれをノートに記録し、確認をした上で解決策を考えます。このようなコミュニケーションをするようになってまだそんなに時間は経っていませんが、お互い何を考えているかがより分かりやすくなりました。

これはお互い若い頃に色々な年代の人とコミュニケーションを取る経験をしていたからできることで、少しずつでもいいので小さい頃からコミュニケーションを取るルールを学ぶ、というのはとても大切だと思います。そして発達障害のみならず定型発達のお子さんたちにもぜひ学んでほしい事でもあります。

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