ろう文化は自閉文化のモデルになりうるか / マルハナバチ (98/11/15)

こんにちは。高機能自閉でADDのマルハナバチです。自閉と診断されたのは今年の 5月なのに、本当かな、ただのADDの重症じゃないのかな、とかいろいろ迷って、 やっぱり、確かに自分は自閉だわ、と納得したのは9月のことでした。なんでそんな に日がかかったかというと、自閉について書いてある本などを読んでも、「症状」に ついて書いてあるだけで、困るほどではない「特徴」とか「性質」のことは書いてな かったからです。

だけど、本来、自閉って脳の特徴なんだから、そこから出てくる「性質」「特徴」と いうものの組み合わせが一揃いあっておかしくない。そのうち、困るものだけを取り 出して「症状」って呼ぶわけですよね。

結局、ほかの自閉者たち本人と文通したり、彼らのホームページを見たりして、「そ うか、やっぱり自閉だったんだ」って納得することになったのでした。

納得するまでの間は、とても苦しかったです。ほかの自閉者に会ってみたくてアメリ カまで飛んで行ったら、みんなとても歓迎してくれたし、いろんなことを説明しなく てもわかってくれたりして、めちゃくちゃなつかしい感じがしました。一方、自分は 仲間ほしさに合わせすぎているんじゃないか、無意識のうちに、はまろうはまろうと しているんじゃないだろうか、みんなをだまして、ちやほやされるのを楽しんでいる だけなんじゃないか、そんなふうにも思ってしまったのです。

でも、やっぱりみんなどこか似てるんですよ、症状とはよばれないけど、ギャグの趣 味とか、ノリとか、そういうものが。そして、自閉者集団の内輪ジョークとか、ある んですよ。で、それを突き詰めていくと、「こだわり」とか「オウム返し」とか「自 己刺激癖」とかになっていくわけだけど、それらを薄めると、「感性」とか「気質」 とか「趣味」、「ノリ」といったものになるんですよね。

私が、自分が自閉者だということを自覚したのは、「注意の切り替えの難しさ」と、 「人の文章を引用するのが大好き」という性質がキーでした。一つの話題にこだわり 出すと、いつまでも切り替えられない。ふつうの社会でだと、「しつこいなあもう」 「まだ言ってるの」となるわけですが、これが自閉者ばかりの集団だと「ふふふ。あ いつ、ハマリよったな」で許される。「引用大好き」っていうのは、長年、自分だけ の癖かと思っていたのに、自閉のメーリングリストに入ってびっくり。おんなじこと やってるやつがわんさかいる... 「ぼくたちは、書きことばでもエコラリアをする んだ」という説明を聞いて、長年の謎が解けたような気がしたものです。

そんなことから、自閉っていうのは、文化でもあるんじゃないか、と私は考え始める ようになったのでした。

自閉者のサブカルチャーというものを考える上で、私がずっと、参考にできないかな と気にしていたのが、ろう文化でした。11月14日の土曜日、田町の東京都障害者 福祉会館で行なわれている「障害学へのお誘い」連続講座の第四回のテーマが「ろう 文化とろう者コミュニティ」というテーマだったので、私はどうしても行きたくて、 同じ日に神戸でおこなわれる大阪教育大の竹田契一先生のLD講演会をあきらめて、 東京へ向かったのでした。

つづく。(休み休み書きます)

ろう文化は自閉文化のモデルに....その2 / マルハナバチ (98/11/15)

東京都障害者福祉会館福祉講座98年度「障害学へのお誘い」第四回、「ろう文化と ろう者コミュニティ」という講座に参加してきました。講師は、国立身体障害者リハ ビリテーションセンターの木村晴美さんです。木村さんは、両親ともにろうの家庭に 生まれ育ったろう者とのことです。

さて、「ろう者」というのは、聴力の有無で決まるのではなく、「ろう者らしいふる まい、行動をするかどうか、手話という言語を共有しているか、ろう者文化を共有し ているかどうか」で決まるのだということです。同じように聴力がなくても、中途失 聴者や難聴者など「ほかの耳のきこえない人たち」は、共通の文化を持っていないか ら、「ろう者」ではないのに、聴者にはこの区別が見えず、「ろう者」が自分たちの 文化、社会を大切に思う気持ちをつかみそこなうことが多いという話でした。ろう者 は自分たちのアイデンティティのよりどころを大切にしているだけで、難聴者や中途 失聴者を差別しているわけではないのに、聴者から「同じ聞こえない者どうし、仲良 くすればいいのに」と言われてちょっとちがうな、と思うことが多いとのことです。

「『ろう者的なふるまい』というのは、『日本人的なふるまい』というのに似ていま す」(わわっ。自閉者はよく、「日本人的なふるまい」を身につけ損なったりするん ですよね......)「聴者でも、外国で東洋人を見かけると、何となく服装やしぐさで 『日本人かな? どうかな?』って判断しようとするでしょう、それと同じなのです。 そして、やっぱり日本人っぽいな、と思っていて、すれちがったときにやっぱり日本 語がきこえたら、『ああやっぱり日本人だ』って思うでしょう。ろう者はそれと同じ ように、日本人の中からろう者を見分けているのです」「それは、自分と同じかどう か、仲間かどうかを確認したいという欲求なのです」と先生のお話は続きます。

ろう者らしいふるまいというのは? たとえば、ろう者は聴者以上に視線を合わせる のだそうです。だから、ろう者たちの間では、聴者はちっとも目を見ないね、という ことになっているのです(あらまー。じゃあ、私たち自閉者は、聴者以上に、さらに 視線を合わせない人たちってことなのね!)。あるいは、人に呼びかけるとき、会話 を始めようとするとき、それぞれに微妙な視線の合わせかた、身体の動きの止めかた、 距離のとりかたがきっちり決まっているのだそうです。ろう者たちは、子どものとき から、ろう社会でこういうルールを身につけていきます。でも、中途失聴者や難聴者 は、ろう者のルールではなくて、聴者のルールを身につけており、ろう文化を学んで いません。だから、中途失聴者や難聴者は、ろう者にはわかる細かな手話の違いがわ からず、知らずに失礼な発言やふるまいをしてしまうのです。でも、ろう者は、一瞬 むっとしたり傷ついたりしても、まあ、中途失聴者だからしかたがない、と自分に言 い聞かせて、あきらめて、大目に見ているのだそうです。同じことをろう者がやった ら大変な制裁を受けるような失敗でも、中途失聴者だから、難聴者だから、聴者だか らしかたがないか、ということで、罰せられることはないのです。

聴力がなくても、ろう文化を身につけていない人はいるし、聴者でも、ろうの親と共 に育って、小さいころからろう文化にさらされたバイリンガルの子どもたちもいる。 だから、ろう文化は聴力の有無とは別のものだとのお話でした。

ろう文化は自閉文化のモデルに....その3 / マルハナバチ (98/11/15)

さて、ろう文化を身につけるには、臨界期というものがあるそうです。9歳から15 歳を境に、文化を身につける力というのは失われてしまうのだそうで、ろう者になる ためには、「ろう者の親を持っている」か「小学校3年か4年までにろう学校に入 る」か、どちらかが必要なのだそうです。

そうやってろう文化を身につけた人々が、ろう社会の核心である「真のろう者」で、 その周辺に、中途失聴者、難聴者、手話を覚えようという意欲のある聴者などが位置 する、ろう者はろう社会をそのようなものとして見ているとのお話でした。

木村さんは、聴者にまじって仕事をしています。聴者である同僚は、好意のつもりで、 終業後にパーティーや飲み会、外食に誘ってくれるのだそうです。その気持ちはあり がたいんだけれども、本当は行ったって楽しめないのはわかっている。一日中第二言 語である日本語を使って仕事をした後にまで、聴者の世界にひとりで加わるというの は、決して快適なことではない。日本語で筆談したりできないでもないけれど、手話 も使えないし、疲れてしまう。本当はろうの友だちや家族の元に帰ってリラックスし たいとこなんんだけれど、それがなかなか聴者にはわかってもらえない。ろう者には 楽しい自分たちの社会がある、自分たちの言語とマナーと文化を分け合った仲間がい る所に帰るとほっとするのに、「殻に閉じこもっていないで、心を開かなきゃ」とか 「こちらは受け入れる用意があるのに」と言われてしまう...... 

わーお。これって、私がいつも、非自閉者の間で感じていること、そのまんまだ わ......そうかー、そうだったんだー。私が疲れるのだって、当たり前よねぇ......  思わず、この箇所では、自分に引きつけて、身を乗り出してしまいました。

つづく。

ろう文化は自閉文化のモデルに....その4 / マルハナバチ (98/11/16)

さて、ここで興味深い話が出ました。ろう者の社会では、自分たちも障害者、視覚障 害者や肢体不自由者も障害者、同じ障害者どうし、というようには考えられていない、 というのです。盲(もう)の人や肢体不自由の人は、まず「聴者」。そして、「聴 者」の中のサブタイプとしての「障害者」だという感覚があるというのです。

なるほどね。そりゃそうですよね。だって、盲(もう)や肢体不自由の人は、聴者と 日本語で話ができるのだから。日本語を第一言語、生活言語としているという意味で、 聴者と文化を共有しているわけだから。

とても明快なモデルに納得してうなずいているうちはよかったのですが、あ、じゃあ 自分はどうなんだろう? と思ったとたん、難問に突き当たってしまったことに気が つきました。

    「ろう者の社会から見たら、自閉者である私は、聴者なんだろうか?」

私はまあまあ聞ける日本語を話しています。日本語が第一言語です。日本語に「ゆが み」はあるものの「遅れ」はありませんでした。そして、書きことばには全く不自由 がないどころか、文章を書いて売ってお金をもらっています。そういう意味では、私 は日本語話者で、聴者です。

でも、私は、実は見えないところで苦労して日本語を話しているのです。というのは、 私の頭の中にある日本語というのは書きことばなので、それを朗読しているようなも のです(実際に文字がビジュアルで見えているわけではありませんが)。でも完全に 朗読だと変になってしまうし、読むときにアレンジするには時間がかかりすぎるので、 話し言葉らしく見えるような文体に書いて、読んでいるわけです。だから、ワープロ で編集したり訂正したりという作業がつい話しことばでもできるかのような錯覚に陥 って、「もとい」って言って、飛んで戻って書き直そうとしたりしてしまう。

あるいは、耳から聞いて覚えたフレーズをそのまま借用したら、この作業をやらなく て済み、手間がはぶけるから(それに、くり返して発音すること自体も楽しいから)、 耳で聞き覚えたフレーズは、文脈に関係あろうがなかろうが、とにかく放り込んでし まう。

手話を第一言語とするろう者が、第二言語としての日本語を、意識的に操作して筆談 するのと同じように、私だって自閉者として、意識的に話しことばを使っているわけ です。だけど、出てくることばは、一応日本語。だから、意識的に第二言語のように 使っているんだということは、わかってもらえません。

私はこの8月に、ほかの自閉者たちに会いたくて、アメリカで行なわれた自閉者の会 合に行きました。そこでは当然英語を使うしかなかったわけですが、英語で同じ自閉 者としゃべるほうが、日本でNT(非自閉者)の人と日本語でしゃべるよりも楽だっ たのです。私はそれまで英語の本は読んでも、会話はほとんどしたことがありません でしたが、会場ではすぐにしゃべれるようになりました(でも、空港や税関、ホテル では英語はしゃべれなかったし、日本に帰ってきても日本語がしばらく出ませんでし た)。今でも、このフォーラムに日本語で投稿するより、自閉者のメーリングリスト に英語で投稿するほうが楽なのです。よそいきの書き方をしなくて済むからです。私 の「ことばの歪み」を丸出しで書けるからです。

でも、私たちは手話とちがって、自閉語という独立した言語を持っているわけではあ りません。あくまで、自閉的にゆがんだ日本語、自閉的にゆがんだ英語というものが あるだけなのです。そして、歪みどころか、なんの言語も獲得していない低機能自閉 者たちも、たくさんいるんですよね.......... 

ろう文化は自閉文化のモデルに....その5 / マルハナバチ (98/11/16)

さて、会場に戻りましょう。講師の木村晴美先生のお話の続きです。

日本のろう者の社会では、日本手話という言語を共有していて、細かなルールやマ ナーが決まっているだけでなく、気質、ものの見かた、態度などにも特有の傾向があ るのだそうです。

たとえば、日本手話には、日本語でいえば「ま、いっか!」に相当するような手話と いうのがあって、いろいろな失敗や不便は、けっこうそれですませてしまうのだそう です。もしかしたら、最初は、まわりが聴者ばかりの世界で、ことばが通じなくて、 いちいち腹をたてていたら保たないからそういうふうに慣れてしまったのかもしれな いのですが、でもそれは今や、気質というものになってしまっているということなの でしょう。ろう者どうしの間でも「ま、いっか!」ですませることが多いし、別にこ とばが通じないが故の失敗ではない、普通の予定変更や失敗に関しても、その態度は ずっと適用されるわけですから。

(インドでよく使われる「ノー・プロブレム」や、ラテン諸国の「明日やる」、アラ ブ諸国の「アラーの御心のままに」、中国語の「私のせいではない」、そういうキー ワードを思い出してしまいました。こうなると、やっぱり、文化以外の何ものでもな いですよね)

さて、日本文化(日本の聴者文化)とろう文化はちがうのだということがよくわかり ました。別の文化なのに、聴者がわはそれを知らない。相手が異文化からの客人であ ることに気がついていなくて、たまたま聴覚に障害があるだけの日本人だという前提 で接するから、いろいろな文化摩擦が起きるわけです。

たとえば、ろう者社会では、日本社会よりも独立独歩の気風が強いそうです。だから、 ろう学校を卒業して就職したばかりの若い人たちは、よく、「協調性がない」「わが ままだ」「ろう者は気配りができない」という評価を受けるそうです。また、ろう者 どうしでは、挨拶をする前に視線を合わせて準備をするから、聴者が視線を合わせな いと、ろう者はついいつもの習慣で、相手が視線を合わせてくれるのを待ってしまう。 視線が合うまで実際の挨拶に移らない。だから、もしも聴者が、視線を合わせないま まで挨拶をすることを期待していて、そのまま行ってしまったりすると、「ろう者は 挨拶をしない」という評価が下されてしまう。

これは、聴者、ろう者の双方が、自分は今、異文化と接触しているんだ、と自覚する ことで、そしてお互いの文化を少しだけ学ぶことで解決できる問題です。でも、ろう 文化というものの存在は、聴者には知られていません。

ろう者は、聴者になるため、聴者に近づくために日本語を学ぶのではなくて、聴者と 共存するため、聴者の多い社会で生活し、聴者の会社で仕事をしてお金を稼ぐのに便 利なように、日本語を学ぶのだ、日本語は、実用的な目的のために学ぶ、第二言語な のだ、という説明が印象的でした。

(第二言語。要するに、ろう者というのは、バイリンガルなわけですね。)

なんか、いろいろと考えてしまいました。 私たち自閉者だって、NT(非自閉者)社会の決まりとか、約束ごととか、暗黙の了 解がわからなくて日々苦労しているわけです。暗黙の了解というのは、「カン」とか 「目分量」とか「察する」とか、「経験でざっくりと」というやつですよね。理屈で、 あるいは数値で、あるいは規則で説明されたらわかるものが、「ざっくりと」と言わ れるとまあわかりません。

たくさん経験を積んだとしても、それは参照するデータのファイルが増えるから精度 が上がるというだけのことで、自分の判断が当たってるかどうかの確信というのは自 分では得られないので、フィードバックをもらえるまでの間は、不安でしかたがない わけです。でも、判断が正しかった場合は、なぜか、なんにも言ってもらえないこと が多いんですよね。それは、自閉者の選択が正しかった場合、非自閉者は、自閉者が まさか当て推量でやったとは気がつかないからじゃないかと思うんです。まさか「こ れで良かったのか」と不安に思っているとは思わないから、まちがっていたら文句を 言うけど、正しかったら黙っている。これも、一種の文化摩擦だと思うんですよね。

だから、「経験を数多く積ませてあげて、カンを身につけさせよう」なんて発想は、 拷問のようにつらいんです。それより、「自閉じゃない人がこう言うときは、こんな ことを期待している場合が多いんだよ」「だからこんな言いかたになるんだよ」「当 たり前だということになっているから省略されている一行があるんだよ」「たくさん の人がもう知っているから、くり返すのがめんどうだから省略するんだよ」と、状況 の裏側を理屈で説明してくれたら、よっぽどわかりやすいんです。

ものの考えかたがちがう、理屈の組み立てかたがちがう、情報の処理の手順がちがう、 ということを納得した上で、私たちを非自閉者に近づけようとするのではなくて、自 閉の発想のままで、非自閉者と共存できるように「非自閉者文化」というものを、第 二言語として教えてくれたら、助かるだろうな、なんて考えてしまいます。

そういう意味で、ろう社会にはろう学校があるというのは、すごい強みですよね。な んか、うらやましくなってしまいました。

それでも、まだ聴者の世界には、手話が日本語の代替手段だと思っていたり、手話を 使うと日本語が上達しないと思っていたり、いろいろ誤解をしている人が多いのには 腹が立ちます。ろう文化でさえ、まだまだ認められていない、知られていないのだか ら、自閉文化だなんて夢のまた夢かもなー、と、ちょっとブルーになってしまったマ ルハナバチなのでした。

(おしまい)


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