自閉症という言葉は自分に関係のありそうなものとして意識していたし、前にドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』を読んだときは、たいへん感激した。こんな美しい真実の物語があっただろうか。しかしドナ・ウィリアムズと自分との間にたくさんの類似点を見ながらも、自分は彼女ほど特殊なところはない、自閉症という障害者の範疇に自分を含めるのは妥当でないとそのときは思ったのだった。
私はコンピュータプログラマーのような仕事をしながら、障害者の問題に関心を持ち、特に視覚障害者がもっとコンピュータを活用できるようにするために、何かできることはないだろうか思っていた。ボランティアのようなこともしたいと思いながら何もできず、かろうじてのささやかな活動として「視覚障害者のコンピュータ利用と学校教育」というホームページを作ったりしていた。
そして、障害者関連のホームページをいろいろ見て回っているとき、「アスペの会」のホームページを見つけて、高機能広汎性発達障害(アスペルガー症候群)の記述を読んで愕然とした。「これは私のことではないか」と。
(ここらへんのことは別のところにも書きました。)
しかし、「孤高の天才」などとして知られる芸術家などは、アスペルガー症候群ではなかったか。世間の雑多なことを無視することができるというのは、偉大な才能ではないか。エジソンやアインシュタインだってそうだったかもしれない。いや、知的な天才なんかじゃなくたっていい。放浪の画家・山下清は自閉症者だったといわれているがアスペルガー症候群(知的障害を重複していたにしても)といってもいいだろう。
平凡な社会性とか協調性のある人ばかりでは世界は退屈でつまらないではないか。奇人変人と思われようとも迷惑がられようとも我が道を行けばいい。何かを失い何かを得る。そんな交換の積み重ねが人生を作っていくのだ。